エピクロスの庭園

よく生きるための備忘録

いい人生

わたしの目的は、いい人生を生きることだ。

 

そのためにはまず、自分自身が人生に心から満足できなければいけないだろう。

なにも、生きててよかった、と意識しなければいけないわけではない。むしろ、心から満足できている人は、わざわざそれを意識はしないだろう。

意識して満足している人は、心の奥底では満足できていないからそうしているのかもしれない。

いい人生を生きている人は、わざわざ自分が満足していることを意識しない。そして、わざわざ人生に満足していることを意識しないならば、わざわざいい人生を生きていることも意識することもないのではないか。

私がいい人生を生きたいのは、いい人生も生きられていないどころか、ろくに満足できていないからなのだろう。

 

しかし。もし、いい人生を生きている人ならば、仮に「あなたがいい人生を生きているか」と問われたら、少し考えさえすれば、おのずと答えと理由を言えるのではないだろうか。

いい人生を生きているようで、ほんとうにそうか、そしてなぜそうかが、ほんとうにわからなければ、その無知の分「だけは」、いやその無知の分「も」、いいとはいいがたい人生を生きているのではないか。

 

おそらく、いい人生を生きている人も、何がほんとうにいい人生か問い尽くしたうえで正しい答えを得て、実際によく生きた人だろう。そして、実際にいい人生を生きているうちにそれが当たり前になって、わざわざ意識しないようになった人だろう。

 

まさに、中島敦名人伝』における「不射の射」のように、よく生きることを忘れてしまうほど極めつくした人こそが、ほんとうにいい人生を生きているのではないか。

 

「ほんとうにいい人生」、「正しい答え」という言葉を使ってしまったが、こういうと反発する人がいるだろう。「私が心から満足さえしていれば、(私にとっては)いい人生なのだ」と。

彼らの言う「私にとっていい人生」は、「ほんとうにいい人生」のことなのか、また別の概念なのか、どちらだろうか。

ほんとうにいい人生のことならば、「私が心から満足できる人生」=「私にとっていい人生」=「ほんとうにいい人生」と彼らは言いたいのであり、私はこれを否定していないし、そうかもしれないとすら思っている。

別の概念ならば、「ほんとうにいい人生」がなんであろうと、それがあろうとなかろうとどうでもいいはずで、わざわざ反発する理由がない。

 

反発しないまでも、本人がいいと思うかだけであって、そもそも「ほんとうにいい人生」などという概念がさすものは実は何もないのだ、という可能性もある。

この可能性を検討するためには、本人がいいと思う人生と比較して、「ほんとうにいい人生」がどういう意味を持っているか、定義を明らかにする必要がある。

 

思うに、本人がいいと思う人生の「いい」は、彼の人生という対象=客観の、彼自身の主観に対する関係である。「彼という主観」が「彼の人生という客観」に対して、「いいと思う」という関係にあることを指す、

たいして、ほんとうにいい人生の「いい」とは、彼の主観を抜きにした、彼の人生の状態のことを指すのだろう。だからこそ、彼自身がいいと思っていても、「ほんとうは」よくはない可能性が示唆されているのである。

 

こう整理すると、いいわるいは主観と客観の関係であり、実体の状態ではない、という人が多いだろう。

いいわるいは、主観と客観の二項の間の関係G(主観、客観)であり、実体の属性G(実体)ではないのだ、と。

だがしかし。主観と客観という区別は、自明だろうか。赤ちゃんのとき、なにかに夢中なとき、気持ちよく寝ているとき、そこには主観と客観の区別は「まだ」生まれていない気がする。

確かに、他人が彼らの状態を整理して、赤ちゃん、ほんとうに夢中な彼、寝ている彼(主観)が幸せな体験(客観)を享受しているということは可能だが、それは彼らのほんとうの状態なのだろうか?彼らの内側からすれば、主観も客観もないのだ。

 

にもかかわらず、彼らを対象化する第三者が判断するまでもなく、彼らだけで、いいわるいは存在しているように思える。

至福のときをすごす赤ちゃん、断末魔に叫ぶ人間…彼らの「いいわるい」は、単なる第三者の思考の産物というには、あまりにもリアルではないだろうか。「いいわるい」ではないにしても、それと同じくらい重い、何かがある。

 

もし、主観と客観という区別が常にはなりたたず、主観と客観の区別無き時もいいわるいがあるとすれば、「いいわるい」は主観と客観に依存して存在しないことになる。

「いいわるい」は、(客観ですらない)主客未分の純粋経験のレベルで存在していて、純粋経験が主観として、己を客観と認識して、初めて意識されるものである。

 

あるいは、「いいわるい」というのも、単なる呼び名・概念にすぎず、「いいわるい」と呼ばれる前の何かが、根源のレベルから噴きあがって認識されたものが、「いいわるい」なのかもしれない。

ショーペンハウアーの言うように、意志という生きるエネルギーのみがあり、その衝動のままに発揮されることが「いい」こととして現れ、阻害されることが「わるい」こととして現れるだけなのかもしれない。

 

いずれにせよ、私は単なる主観上に限られない、「ほんとうに」いい人生を生きたいと強く思う。

 

まとめ

・いい人生を生きる人は、わざわざそれを意識しない。

・しかし、いい人生を生きる人は、無意識になるほど、そのなんたるかを知りつくしているはずだ。

・いい人生とは、単に本人が主観的にいいと思うだけでなく、ほんとうにいい人生のことである。

・主観上の「いい」とは別に、ほんとうに「いい」は存在すると思う。

・なぜなら、主観と客観の別なくても、「いいわるい」か、そのもととなるものは存在するように思えるから。

・私はこのような、意識や主観上のみならず、もっと根源的なレベルで「いい」人生を生きたい。