倹約と自由について
幸福に生きるためにもっとも重要なのは、倹約という美徳を身に着けることだろう。
ここでは倹約を「自分の力で簡単に得られるものだけで、満足できること」として定義する。
倹約には二つの方向がある。
一つ目は、自分で簡単に獲得できるもので、自分を満足させられること。
客観的には同じ生活水準でも、ありがたみを感じられる人もいれば、物足りず退屈する人がいる。
この違いは、幸福観・価値観という、主観によるものだ。
二つ目は、自分を満足させるものを、自分で簡単に獲得できること。
主観としては似たような幸福観をもっていても、満足できるほど豊かな生活を実現できる人と、出来ない人がいる。
この違いは、客観的な生活や仕事の能力による。
以上を踏まえると、倹約の度合いは次のように表せるかもしれない。
倹約度=(簡単に獲得できるもの)/(満足するのに必要なもの)
分母を小さく(より少なきで満足できるように)するため、節制・陶冶に励むと同時に、分子を大きく(より多きを獲得できるように)するために、自己研鑽に励むことが、倹約の両輪と言える。
最初は倹約度は1より小さいだろう。つまり、満足するのに必要なものを苦労して獲得しなければならない。不満足をお金で埋め、そのお金を得るため、苦しい労働に時間・活力を費やす必要がある。
この最小限の労働をするだけでは、いつまでたっても状況は改善しないだろう。労働に少し慣れるとはいえ、技術革新についていくだけで精いっぱいだろう。客観的な能力はあがらず、主観を磨くこともできないため、倹約度はずっと1未満である。
仕事に追われるだけで自己研鑽をせず、お金を使う娯楽で不満足を穴埋めするだけの人が好例である。それが一生続けられればいいほうで、解雇や減給で不幸に転落してしまうリスクが大きい。
彼らも、労働に加え、少しでも仕事や生活の能力を磨くか、節制に励むならば、倹約度を上げることが出来る。
家事や労働を少しの時間や手間で終わらせたり、たくさんお金を稼ぐことが出来れば、時間やお金を将来に向けて投資できる。余った時間や活力はキャリアアップに使えるし、お金のかからない趣味を開拓もできる。お金は資産運用に回すことができるだろう。
倹約度が上がりだせば、あとは好循環である。より多くの時間・活力・お金が余るため、それを自己に投資することで、より倹約度をあげることが出来る。
倹約度が1を超えれば、意識をするまでもなく、字義通り「余裕で」倹約に励むことが出来る。
倹約度1の壁を超えた後の状態を、自由、あるいは自足とよぶことにする。これを早期に達成できてしまう有能・有徳な人もいれば、死ぬまで未達の人もいるだろう。
いくらお金があっても満足できない人は自由人ではないし、いくら貧乏でも簡単に満足できる人は自由人である。
いい人生を生きることが私の目標である。自由だからといっていい人生とは限らないが、いい人生であるためには自由が必要条件だと思う。
いくら多くを稼いでも、多くを成し遂げても、それに満足することが出来なければ、(社会や他人にとって)いい人生でも、肝心の自分にとってはいい人生ではない。そして、いい人生とは、まずは本人にとっていい人生であるはずだからだ。
また、自由であってこそ、他人と比較せずに、自分の人生を本当によくするものを知り、追求する余裕がうまれる。自由はいい人生を実現するために必須な手段でもある。
この自由は、俗にいう選択の自由でも、意志の自由でもない。倹約という美徳や能力が十分な状態のことをいう。選択の自由や意志の自由は、それに伴う結果に過ぎない。
仮に自由に選択できても、自由に意志できても、どの選択肢や結果にも不満足であれば、そのような自由にいかほどの価値があるだろうか。
自由意志の定義に関しては、ホッブズの古典的な定義(欲求することを妨げられないこと)が妥当ではないかと思う。
確かに、過剰適応や洗脳により抑圧的な状況にいとも簡単に満足してしまう人が、ほんとうに自由か、仮に自由だとしてもいい人生を送っているか、という問題はある。
ただ、哲学的な定義としてホッブズの定義に問題はあっても、現代の日本で男性として生き、それなりの教育や仕事に恵まれている私は、「自ら吟味したうえで」満足できるという条件さえ追加すれば、「ほんとうに」自由でいい人生という条件もクリアできるのではないか。
もし愚かな私がその気になっているだけで、「ほんとうは」自由にいい人生を生きられないようであれば、どうあがいても私には無理である。「可能な限り」自由にいい人生を生きることにしたい。
まとめ
・倹約は、一方では、より多きを獲得することで実現できる。
・倹約は、他方では、より少なきで満足することで実現できる。
・倹約度は、(簡単に獲得できるもの)/(満足するのに必要なもの)として定義できる。
・倹約度をあげれば、ますますあげやすくなる好循環が生まれる。
・倹約度が1を超えた状態こそが自由である。
・自由はいい人生の必要条件であると同時に手段である。
・選択の自由も、意志の自由も、自由と呼ぶには不十分であり、自由の結果に過ぎない。
・ここでいう自由は、「ほんとうの」自由ではないかもしれない。ただ、吟味して生きるならば、「可能な限り」自由に生きることはできる。