言語
現代社会では、何かと「言語」が幅を利かせているように思う。
我々がのめりこむネットは、SNS、ニュースからブログにいたるまで、言語であふれている。仕事でも、言語に接する時間がほとんどだ。プライベートの時間ですら、心の中で言葉が渦巻いている。
確かに、言語は他人とアイデアを共有したり、アイデアを自由自在に組み合わせることのできる強力なツールであることに間違いはない。そのおかげで人類は文明をここまで発展させることが出来た。
ただし、言語は単なる手段に過ぎないと私は思う。
例えば「悟り」のように、知恵、知識や真理というのは、本来は直観的な経験の形をとるのであって、言葉に宿ったり、言葉の形式をとるものではないと思う。私にとって、言葉はあくまで、経験を操作したり、経験の間を行き来するための道具に過ぎない。
もちろん、言葉の意味が、決して特定の経験内容ではないことは、周知のことだ。言葉の意味は、その使われ方で規定されるのではないか、という考え方が主流のようだ。
言葉の使い方には、正解も不正解もある。使い方が正解かどうかは、社会における使い方と整合しているかによって初めて規定されるというのだ。この、社会における言語実践を、言語ゲームというらしい。
言語ゲームに従うことは、大変有用だ。他人とコミュニケーションが出来る恩恵もあるが、一人で使う場合も、効果的にアイデアを生み出すことが出来るからだ。だからこそ、そういう言葉の使い方が、社会で共有されるに至ったのだ。
もし、ゲームのルールを無視して出鱈目に言語を使用しようものなら、支離滅裂になり、何も面白い考えは浮かんでこない。
ただ、もし言語の役割を、直観を研ぎ澄まし、経験を生み出すためのものとして広くとらえるならば、言語ゲームに従うことがすべてではないと思う。
誰しも、プライベートで、その人にしかわからない世界を持っていると思う。それは、言葉で簡単に共有できる世界よりも、ずっと豊かで大切なものだと、私は思う。
そういう世界を、胸の内にとどめておくのはあまりにもったいない。
自分にしかわからない言葉遊びをしたり、本質的に他人に説明できないことを言葉を使って考えることにも意義があるだろう。言葉遊びを通じて、新たな発想が浮かぶかもしれない。あるいは、私秘的で伝達不可能な世界を、言葉を使って深堀することができるかもしれない。
むろん、他人に向けてそういう語りかけをするのは、言語ゲームの場ではルール違反だ。そういうことをすれば締め出され、不利益を被るわけだから、避けたほうがいい。
ただ、もしかしたら、言語ゲームから、部分的に逸脱した者どうし楽しめる人が、いるかもしれない。もちろん、やりとりが成立している時点で、新たな言語ゲームが成立しているかもしれないが、そんなことはどうでもいい。各々がより良い経験に到達する助けにさえなれば、どういう言葉の使い方をしてもいいのではないかと思う。
人生はプライベートであり、公共はプライベートを架橋するためのプロトコルに過ぎない。にもかかわらず、公共に意識を取られるあまり、公共を構成する言語や規範を目的ととらえる人が多い。
私にとっては、言語は経験を自由自在に紡ぎ出せる道具であり、規範はいい結果をもたらすことのできる動機付けに過ぎない。
やはり、正しい人生よりも、いい人生を生きたい。
まとめ
・現代社会は言語であふれている。
・言語は経験を操作するために有用な道具である。
・言語には正しい使い方があり、それは言語ゲームという社会的実践で規定される。
・言語をゲームに沿って正しく使うことは有用である。
・私的、詩的な語りかたも、ゲームのルール違反ではあれ、よい経験を紡ぎ出すのに有用かもしれない。
・皆、公共の言語や規範を意識しすぎている。私は、プライベートを構成する経験や善を第一に追求したい。
協力
いい人生を生きたい。
そのためには、他者の存在が欠かせない。
それは、近しい人達とともに、いい人生を生きたいからだけではなく、私個人がいい人生を生きるためにも、近しい人たちとの協力が必須だからだ。
では、どういう人達と、どういう人間関係を持つことが望ましいのだろうか。
三人寄れば文殊の知恵とあるように、人はあつまればあつまるほど、よりよいものが生み出せるといわれる。
ただ、それは、各々が持てるアイデアをすべてシェアし、軽視・否定されることがない場合に限られるだろう。それでこそ、個人が持てるものの最小公倍数が実現できる。
もし、少数意見や新しい考え方が聴き入れられず、一般的な常識しか共有されない場合は、個人が持てるものの最大公約数しか実現できない。衆愚政治や全体主義がそのいい例だろう。
上の場合を協力、下の場合を同調とよぼう。程度の差こそはあれ、集団で一緒に何かをする場合は、必ず協力も同調も生じる。ここで、協力を最大限に、同調を最小限に抑えることができれば、恩恵を最大化することができるだろう。では、どうすれば。
協力が最大限行われるためにはまず、アイデアをすべて共有するための時間が必要だ。人数が多いとこれは不可能である。
もしかりに時間が十分にあっても、アイデアを言い出せない空気であったり、違うアイデアに耳を傾ける態度が欠けていれば、アイデアは共有されない。
これを防ぐには、批判はすれど否定せず、互いを尊重しあう人間関係が不可欠である。
最後に、かりにアイデアが全部共有されても、まとめることができなければ意味がない。バラバラで、一見対立しあうアイデアを、止揚して総合できる人がいなければならない。
少人数でじっくり話し合う場、互いに尊重しあう関係、綜合できる知性の三要素がそろって、初めて協力が実を結ぶのである。
人数が多く、少数意見が尊重されず、知性の影響力が弱い集団、すなわち「大衆」では、協力ではなく同調が強くなることは、無理もないのだ。
以上を踏まえると、最初の問いへの答えは、少人数の知的な人達と、率直に意見を交換できる人間関係を築くのが最善ということになるだろう。
関係はプライベートであるに越したことはない。
ただし、仕事や政治では、そうはいかない。赤の他人と一緒に仕事をせざるをえないし、見知らぬ大衆とともに政治決定をしないといけない。つまり、パブリックな関係を持たざるを得ない。
このような公共の場でももちろん、協力ができるための努力はできればしたほうがいいのだろうが、できる協力は限られている。ビジネスはともかく、政治に至っては、個人よりも劣った集団決定がなされることが、ほとんどである。
確かに、公共の場に積極的に参画することが、有意義な場合もある。ただし、そこでまかりとおる言説に期待したり、真に受けたりすることは厳禁である。決して、自分が他人よりも賢いわけではないのではない、個人が集団よりも賢いのである。
人間は社会的動物と言われるが、人間が社会性を自由に発揮出来るのは、プライベートな場までではないか。百歩譲っても、古代ギリシャのポリスが限界だったのではないだろうか。
公共からは距離を置き、エピクロスの庭園に隠居するというのが、かえって最も人間的な生き方なのかもしれない。
まとめ
・いい人生には、他者との協力が不可欠。
・協力は個人の最小公倍数なのに対し、同調は個人の最大公約数。
・同調に陥らずに協力を実現するためには、十分な時間、互いの尊重、綜合する知性が必要。
・存分に協力出来るのはプライベートまでであり、公共の協力は限られている。
・公共のレベルには期待せず、真に受けないことが大事。
・エピクロスの庭園に身を置くべし。
いい人生
わたしの目的は、いい人生を生きることだ。
そのためにはまず、自分自身が人生に心から満足できなければいけないだろう。
なにも、生きててよかった、と意識しなければいけないわけではない。むしろ、心から満足できている人は、わざわざそれを意識はしないだろう。
意識して満足している人は、心の奥底では満足できていないからそうしているのかもしれない。
いい人生を生きている人は、わざわざ自分が満足していることを意識しない。そして、わざわざ人生に満足していることを意識しないならば、わざわざいい人生を生きていることも意識することもないのではないか。
私がいい人生を生きたいのは、いい人生も生きられていないどころか、ろくに満足できていないからなのだろう。
しかし。もし、いい人生を生きている人ならば、仮に「あなたがいい人生を生きているか」と問われたら、少し考えさえすれば、おのずと答えと理由を言えるのではないだろうか。
いい人生を生きているようで、ほんとうにそうか、そしてなぜそうかが、ほんとうにわからなければ、その無知の分「だけは」、いやその無知の分「も」、いいとはいいがたい人生を生きているのではないか。
おそらく、いい人生を生きている人も、何がほんとうにいい人生か問い尽くしたうえで正しい答えを得て、実際によく生きた人だろう。そして、実際にいい人生を生きているうちにそれが当たり前になって、わざわざ意識しないようになった人だろう。
まさに、中島敦『名人伝』における「不射の射」のように、よく生きることを忘れてしまうほど極めつくした人こそが、ほんとうにいい人生を生きているのではないか。
「ほんとうにいい人生」、「正しい答え」という言葉を使ってしまったが、こういうと反発する人がいるだろう。「私が心から満足さえしていれば、(私にとっては)いい人生なのだ」と。
彼らの言う「私にとっていい人生」は、「ほんとうにいい人生」のことなのか、また別の概念なのか、どちらだろうか。
ほんとうにいい人生のことならば、「私が心から満足できる人生」=「私にとっていい人生」=「ほんとうにいい人生」と彼らは言いたいのであり、私はこれを否定していないし、そうかもしれないとすら思っている。
別の概念ならば、「ほんとうにいい人生」がなんであろうと、それがあろうとなかろうとどうでもいいはずで、わざわざ反発する理由がない。
反発しないまでも、本人がいいと思うかだけであって、そもそも「ほんとうにいい人生」などという概念がさすものは実は何もないのだ、という可能性もある。
この可能性を検討するためには、本人がいいと思う人生と比較して、「ほんとうにいい人生」がどういう意味を持っているか、定義を明らかにする必要がある。
思うに、本人がいいと思う人生の「いい」は、彼の人生という対象=客観の、彼自身の主観に対する関係である。「彼という主観」が「彼の人生という客観」に対して、「いいと思う」という関係にあることを指す、
たいして、ほんとうにいい人生の「いい」とは、彼の主観を抜きにした、彼の人生の状態のことを指すのだろう。だからこそ、彼自身がいいと思っていても、「ほんとうは」よくはない可能性が示唆されているのである。
こう整理すると、いいわるいは主観と客観の関係であり、実体の状態ではない、という人が多いだろう。
いいわるいは、主観と客観の二項の間の関係G(主観、客観)であり、実体の属性G(実体)ではないのだ、と。
だがしかし。主観と客観という区別は、自明だろうか。赤ちゃんのとき、なにかに夢中なとき、気持ちよく寝ているとき、そこには主観と客観の区別は「まだ」生まれていない気がする。
確かに、他人が彼らの状態を整理して、赤ちゃん、ほんとうに夢中な彼、寝ている彼(主観)が幸せな体験(客観)を享受しているということは可能だが、それは彼らのほんとうの状態なのだろうか?彼らの内側からすれば、主観も客観もないのだ。
にもかかわらず、彼らを対象化する第三者が判断するまでもなく、彼らだけで、いいわるいは存在しているように思える。
至福のときをすごす赤ちゃん、断末魔に叫ぶ人間…彼らの「いいわるい」は、単なる第三者の思考の産物というには、あまりにもリアルではないだろうか。「いいわるい」ではないにしても、それと同じくらい重い、何かがある。
もし、主観と客観という区別が常にはなりたたず、主観と客観の区別無き時もいいわるいがあるとすれば、「いいわるい」は主観と客観に依存して存在しないことになる。
「いいわるい」は、(客観ですらない)主客未分の純粋経験のレベルで存在していて、純粋経験が主観として、己を客観と認識して、初めて意識されるものである。
あるいは、「いいわるい」というのも、単なる呼び名・概念にすぎず、「いいわるい」と呼ばれる前の何かが、根源のレベルから噴きあがって認識されたものが、「いいわるい」なのかもしれない。
ショーペンハウアーの言うように、意志という生きるエネルギーのみがあり、その衝動のままに発揮されることが「いい」こととして現れ、阻害されることが「わるい」こととして現れるだけなのかもしれない。
いずれにせよ、私は単なる主観上に限られない、「ほんとうに」いい人生を生きたいと強く思う。
まとめ
・いい人生を生きる人は、わざわざそれを意識しない。
・しかし、いい人生を生きる人は、無意識になるほど、そのなんたるかを知りつくしているはずだ。
・いい人生とは、単に本人が主観的にいいと思うだけでなく、ほんとうにいい人生のことである。
・主観上の「いい」とは別に、ほんとうに「いい」は存在すると思う。
・なぜなら、主観と客観の別なくても、「いいわるい」か、そのもととなるものは存在するように思えるから。
・私はこのような、意識や主観上のみならず、もっと根源的なレベルで「いい」人生を生きたい。
倹約と自由について
幸福に生きるためにもっとも重要なのは、倹約という美徳を身に着けることだろう。
ここでは倹約を「自分の力で簡単に得られるものだけで、満足できること」として定義する。
倹約には二つの方向がある。
一つ目は、自分で簡単に獲得できるもので、自分を満足させられること。
客観的には同じ生活水準でも、ありがたみを感じられる人もいれば、物足りず退屈する人がいる。
この違いは、幸福観・価値観という、主観によるものだ。
二つ目は、自分を満足させるものを、自分で簡単に獲得できること。
主観としては似たような幸福観をもっていても、満足できるほど豊かな生活を実現できる人と、出来ない人がいる。
この違いは、客観的な生活や仕事の能力による。
以上を踏まえると、倹約の度合いは次のように表せるかもしれない。
倹約度=(簡単に獲得できるもの)/(満足するのに必要なもの)
分母を小さく(より少なきで満足できるように)するため、節制・陶冶に励むと同時に、分子を大きく(より多きを獲得できるように)するために、自己研鑽に励むことが、倹約の両輪と言える。
最初は倹約度は1より小さいだろう。つまり、満足するのに必要なものを苦労して獲得しなければならない。不満足をお金で埋め、そのお金を得るため、苦しい労働に時間・活力を費やす必要がある。
この最小限の労働をするだけでは、いつまでたっても状況は改善しないだろう。労働に少し慣れるとはいえ、技術革新についていくだけで精いっぱいだろう。客観的な能力はあがらず、主観を磨くこともできないため、倹約度はずっと1未満である。
仕事に追われるだけで自己研鑽をせず、お金を使う娯楽で不満足を穴埋めするだけの人が好例である。それが一生続けられればいいほうで、解雇や減給で不幸に転落してしまうリスクが大きい。
彼らも、労働に加え、少しでも仕事や生活の能力を磨くか、節制に励むならば、倹約度を上げることが出来る。
家事や労働を少しの時間や手間で終わらせたり、たくさんお金を稼ぐことが出来れば、時間やお金を将来に向けて投資できる。余った時間や活力はキャリアアップに使えるし、お金のかからない趣味を開拓もできる。お金は資産運用に回すことができるだろう。
倹約度が上がりだせば、あとは好循環である。より多くの時間・活力・お金が余るため、それを自己に投資することで、より倹約度をあげることが出来る。
倹約度が1を超えれば、意識をするまでもなく、字義通り「余裕で」倹約に励むことが出来る。
倹約度1の壁を超えた後の状態を、自由、あるいは自足とよぶことにする。これを早期に達成できてしまう有能・有徳な人もいれば、死ぬまで未達の人もいるだろう。
いくらお金があっても満足できない人は自由人ではないし、いくら貧乏でも簡単に満足できる人は自由人である。
いい人生を生きることが私の目標である。自由だからといっていい人生とは限らないが、いい人生であるためには自由が必要条件だと思う。
いくら多くを稼いでも、多くを成し遂げても、それに満足することが出来なければ、(社会や他人にとって)いい人生でも、肝心の自分にとってはいい人生ではない。そして、いい人生とは、まずは本人にとっていい人生であるはずだからだ。
また、自由であってこそ、他人と比較せずに、自分の人生を本当によくするものを知り、追求する余裕がうまれる。自由はいい人生を実現するために必須な手段でもある。
この自由は、俗にいう選択の自由でも、意志の自由でもない。倹約という美徳や能力が十分な状態のことをいう。選択の自由や意志の自由は、それに伴う結果に過ぎない。
仮に自由に選択できても、自由に意志できても、どの選択肢や結果にも不満足であれば、そのような自由にいかほどの価値があるだろうか。
自由意志の定義に関しては、ホッブズの古典的な定義(欲求することを妨げられないこと)が妥当ではないかと思う。
確かに、過剰適応や洗脳により抑圧的な状況にいとも簡単に満足してしまう人が、ほんとうに自由か、仮に自由だとしてもいい人生を送っているか、という問題はある。
ただ、哲学的な定義としてホッブズの定義に問題はあっても、現代の日本で男性として生き、それなりの教育や仕事に恵まれている私は、「自ら吟味したうえで」満足できるという条件さえ追加すれば、「ほんとうに」自由でいい人生という条件もクリアできるのではないか。
もし愚かな私がその気になっているだけで、「ほんとうは」自由にいい人生を生きられないようであれば、どうあがいても私には無理である。「可能な限り」自由にいい人生を生きることにしたい。
まとめ
・倹約は、一方では、より多きを獲得することで実現できる。
・倹約は、他方では、より少なきで満足することで実現できる。
・倹約度は、(簡単に獲得できるもの)/(満足するのに必要なもの)として定義できる。
・倹約度をあげれば、ますますあげやすくなる好循環が生まれる。
・倹約度が1を超えた状態こそが自由である。
・自由はいい人生の必要条件であると同時に手段である。
・選択の自由も、意志の自由も、自由と呼ぶには不十分であり、自由の結果に過ぎない。
・ここでいう自由は、「ほんとうの」自由ではないかもしれない。ただ、吟味して生きるならば、「可能な限り」自由に生きることはできる。
はじめに
いい人生を生きたい。
こう意識していないときも、私は絶えずそのように欲求し、それに向けて努力しているのだと思う。
とはいえ、盲目的に頑張るだけでは、なかなかうまくいってくれない。
いい人生を生きるには、それがどういうものか、どうやって実現するかを意識的に考え、計画的に実行する必要がある。
これが、途方もなく難しい。ろくにわからず、実行できずに死んでいくのだろう。
それでも、日々考えて経験したことを蓄積していけば、きっといいヒントにはなるはずだ。
そこで、いい人生を生きるための、備忘録を残すことにした。
もちろん何がいいかは人それぞれとはいえ、人間に共通するところもあるだろう。
人生をよく生きるための知恵や技術、俗には「ライフハック」というのだろうが、そういうものを検討したり、実行に移した記録を公開すれば、もしかしたら他人のヒントにもなるかもしれないし、逆に指摘がもらえるかもしれない。
そこで、ブログとして書き残すことにした。
「ライフハック」といっても、すぐに実践できる習慣から、哲学的な問いの考察まで、すべてを含む。人生に影響を与えない考えなんて、一切ないからだ。
言葉で表現されたアイデアは、どんなに思弁的でも、必ず世界の見方や、世界との関わり方を変えるものだと思う。そういう思想がベースにあってこそ、いわゆる「ライフハック」がうまく実行できるのだろう。
本来、抽象論から日記まで、すべてはひとつながりであるはずで、あるべきだ。私の書く雑多な内容は不連続になるかもしれないが、ここでその再整理もしたい。